藤本壮介
1996年、地元北海道に処女作である聖台病院作業療法棟が竣工。
同年、青森県立美術館設計コンペに参加、青木淳に次ぎ優秀賞を獲得。
「僕は弱い建築を作りたい」という言葉は、伊東豊雄をはじめとする審査員一同に強烈な印象を与えた。
藤本が“弱い建築”を提唱しているのはよく知られているが、その他にも“部分の建築”など独特の言い回しで自身の考えを提唱している。
彼はその後に自身が述べたことをまるで模索するかのように設計というプロセスで半ば実験的に実行に移すという、現代では数少ないスタイルを持つ若手建築家の一人。
JIA新人賞受賞(伊達の援護寮、2004)、安中環境アートフォーラム国際設計競技最優秀賞(2003)、SDレビュー入選。
建築家は職業上常に厳格な雰囲気を持っているというイメージとは裏腹に、藤本さんはとても穏やかで建築を心から楽しんでやっているという印象を受けました。
彼の建築には強い軸というものがなく、どこか不安定そうな印象も受けながらも、機能的には不自由なく働き、人間の行動を規制することなく“遊び”を無限大に見出すことができる空間を作り出しているような感じを覚えました。
それと同時に彼との出会いは建築ってこんなに面白いんだ、面白くやっていいんだという自分にとって新たな考えを見出す貴重な機会でもありました。
独特の緩いスタンスで建築を楽しみながらも、常に新たなスタイルを探求している彼の今後の活躍が楽しみです。
住吉の長屋
1976年竣工。
大阪下町の伝統家屋である長屋を、設計する上で非常に厳しい条件の中、彼の思想を込め表現した初期の代表作品。
その独特性と斬新さは安藤忠雄という建築家を世に知らしめるきっかけになり、多くの人々にショックを与えた。
発表後、この家はすぐさま“問題作品”となった。
「雨の日に傘を差してトイレに行かなくてはいけないとはなんという建築家の横暴か」
それだけ批判されたにも関わらず、その洗練された新鮮な住宅のあり方の提案は多くの人を魅了した。
その最大の特徴はやはり中庭にあるのではないかと思う。
面積は13.5m×3.6mという非常にミニマムなものであった。それにも関わらず安藤は大胆にも縦13.5mを三分割しその中心には中庭と階段を置くというスタイルを提案。自然光を取り込む為にそこにはあえて屋根は設置しなかった。
快適性を第一に考え設計された住宅に比べると、利便性は明らかに劣っていると思う。
しかし機能性だけを求めた住宅はそれ自体の本質を失い、住む人間が住まされるという状況に陥ってしまうのではないだろうか。
なにか欠けている、もしくは人の要求を完全に満たしていない状況にいるほど、人はそれを満たそうと行動すると思うし、そこにあるものによって行動、つまり生き方が左右されるのだと思う。
住宅に何を求めるかというのは個々それぞれによって異なると思うが、機能性と利便性だけをひたすら追い求める現代の傾向は、人の本当の豊かさであるべき“コミュニケーション”を遮断しているような気がする。勿論これは建築だけに言えることではないが。
矩形の中に何を入れるか。限られた空間になにを取り込むか。
安藤はそこに光が入る中庭という“小宇宙”と生きる上での厳しさをクライアントに与えたのかもしれない。彼が重点に置いたのは、小さな空間にできるだけ便利の良いものを詰め込むという機能性の追求ではなかった。
クライアントは76年の竣工から30年経った現在でもそこに住み続けているという。
79年度日本建築学会賞受賞作品。
安藤忠雄
日本を代表する建築家の一人。
通信教育や大学での無断聴講、旅などを通して建築を学ぶ。
打ち放しコンクリート、ガラスなどが彼の建築の主なマテリアルであり、そのスタイルはコルビジェやカーンに強い影響を受けている。
1969年、28歳で独立し、安藤忠雄建築研究所を設立。
初期の作品は個人住宅が多く、そのほぼ全てが打ち放しコンクリートであり、その時期の彼のスタイルが最も魅力的であるという見解もある。
1979年、住吉の長屋で日本建築学賞を受賞。38歳の時である。
緑や水、光などの要素もまた重要視し、それをより多くの公共施設や娯楽施設へ取り入れる試みをコンペティションなどを通し提案。
阪神・淡路震災復興支援10年委員会の実行委員長や瀬戸内オリーブ基金設立など、建築家という域を超えての活動も活発に行っている。
1995年、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞。
「いつか自分も、こんなに密度の高い図面を携えてコンペを戦ってみたい・・・建築を挑んでいきたい」
全く同感です。
彼の数々の言葉に強い感銘を受けています。
最も尊敬する建築家の一人です。