槇文彦

queple2006-07-28

1928年生まれ。
東京都出身。



幼少期、日本にモダニズム建築を紹介した建築家の一人であり、フランク・ロイド・ライトの弟子であった土浦亀城氏の自邸を建築家の村田政真氏と共に訪れて以来、土浦氏に強い感銘を受ける。
自身の通っていた小学校は当時の若手モダニスト建築家であった谷口吉郎によって手がけられたもので、幼少期から当時の最先端のモダニズム建築に生で抵触するする機会が多々あったことが建築家としての原点であった。



1952年、東京大学工学部建築学科卒業。
当時東京大学助教授で、広島ピースセンターの計画に取り組んでいた丹下健三の研究室で半年間、実務経験を積む。



翌年、渡米。
クランブルック・アカデミーオブアート、ハーバード大学大学院で建築とアーバンデザインを研究。
ホセ・ルイ・セルトのもとで学び、大学院修了後はワシントン大学ハーバード大学の準教授として教鞭を執った。
アメリカ滞在中、当時モダニズム第一世代としてヨーロッパからアメリカに移住してきたエーロ・サーリネン、ワルダー・グロピウスといった建築家からの影響も強く受けている。


幼少期からの日本モダニズムの体験とアメリカでの教育、またチーム・テンのメンバーとも接触があったという点から“生粋のモダニスト”とされる。


事実上の処女作品である「名古屋大学豊田講堂」は1960年、槇が31歳の時に竣工。
日本建築学会賞受賞作品となる。


周囲の期待を決して裏切らない、建築界への颯爽なデビューを飾る。


1965年、日本で本格的な設計をする為アメリカでの生活に区切りをつけ帰国。
同年、東京に槇総合計画事務所設立。



1967年、槇文彦の代表的な作品、「ヒルサイド・テラス」の第一期プロジェクトが始まる。
地主である朝倉家はこの土地に急速な開発を望まず、あくまで住居を核とした“快適な空間”を要求した。
それに対し槇はプライベートを最重視した快適さではなく、街の一部になりうる空間の創造を“リンケージ”を軸に構成するという形でこたえた。
それは人の動きを意図的に誘う仕掛け又は構成要素であり、大小異なる樹木・広場の設置やガラスによる街と建物の境界線、パブリックな通り抜け空間の設置などのディテールを通して、人々にオープンな空間の提供を目指した。
2年後に第一期「ヒルサイド・テラス」が竣工。
その後代官山は時代の移り変わりと共に第一期当時の緑の生い茂る、昔ながらの商店街が点在する地域からファッショナブルな街に一変した。
やはりその中心的存在は「ヒルサイド・テラス」であり、「ヒルサイド・ウェスト」を含むとおよそ30年にも及ぶ一連のプロジェクトの設計者、施主が変わることなく手がけられたのは非常に珍しいことである。
槇自身そのような機会に恵まれたことを光栄に感じていると述べている。




槇文彦の特徴として挙げられるのはモニュメンタルや威厳的、または象徴的な形態を避け、細部に至っては丁寧かつ多様性をはらんだ無装飾なデザインという点である。
また素材に至っては一つに限定せず、場所・用途・表情によって使い分ける。
名古屋大学豊田講堂」と「立正大学熊谷校舎」で打ち放しコンクリートが多用したことは本人も意図的な行為であったと認めているが、その後の経験からそれは環境や場所によっては耐候性の欠落につながるという結論に至る。
またモダニズム建築とそれ以前の様式を比較。
以前の建築様式が持っていた優れていた点で現代建築が持ち得ないもの、モダニズムの欠点を見出し、それを自身の設計において克服することによってより洗練された建築物の創造を目指している。




しかしそのような“槇文彦らしさ”を見事に裏切ったのが「藤沢市秋葉台文化体育館」であった。
それは槇の真骨頂である“繋ぎの空間”への新たな挑戦であったが、最大の特徴はその形態にある。
カブトを連想させるメインアリーナとUFOのような形のサブアリーナで構成され、その間を繋ぎの空間であるエントランス・ギャラリーが連結している。
これは完全なる構造表現主義の表れであり、それまで避けてきたはずの象徴的形態そのものである。
それに対し槇は「単純な四角い箱では、空間の大きさが要求するエネルギーを十分に充足できない。寸法によってかたちのあり方と包容性が変わる」と述べている。
意図的に形態を強調するのではなく、あくまで内部空間の快適さの追求の結果生まれた形態であった。
また1980年代はポスト・モダン最盛期であり、そのような時代背景も一つの要因であったと思われる。


 藤沢市秋葉台文化体育館(1984)   


 ヒルサイド・テラス(1967−1992) 
                         
                                   
                    

しかし槇は他の建築家達のようにポストモダニズムに傾倒することなく、その後も過剰な形態や装飾性を排除し続けた。
あくまでモダニズムを軸とし、「スパイラル」や「テピア」からも見受けられる一貫したコンセプトとして挙げられるのが内部空間からの発想、細やかなディテール、控えめな自己主張などである。


現在に至っても槇は衰えることなく力を発揮し続け、最近では「世界貿易センタービル・タワー4」の設計を担当することが決定している。



1993年プリツカー賞受賞。





 スパイラル(1985)



教育という媒体を通し日本とアメリカの最高標準の教育機関で学び、様々な人物から影響を受け自己のスタイルを模索、確立していった槇文彦氏。
エリート街道をひたすら進み、現在も衰えることなく実力を発揮し続けている天才肌の建築家だと思います。
尊敬すべきは設計によって人々の行動を無意識に決定させてしまう力だと思います。
ヒルサイド・テラス」の一連のプロジェクトでは建物の内部空間に限定せず、外部空間までをも取り巻く設計で結果的には代官山という一つの街をも形成してしまいました。
そのような点から考えると数々の建築家達が敗退した“都市計画”という分野で勝利を手にした数少ない建築家の一人だと思います。
また対極的な素材を意図的に組み合わせるという試みもまた槇建築の醍醐味の一つではないのでしょうか。
非常に奥の深い建築家だと感じました。