菊竹清訓

queple2006-05-31

1928年生まれ。
福岡県出身。

1950年早稲田大学理工学部建築学科卒業。


大学在籍時から頭角を現し、多数のコンペに参加。大学2年時、「商店建築懸賞競技」で初の一等入選。

菊竹の存在を世に知らしめたのは終戦直後の本格的なコンペであり、“歴史的スキャンダル”とも呼ばれている「広島世界平和記念聖堂設計競技」といわれている。
審査員である村野藤吾が“該当者なし”とし、自ら設計を手がけてしまったというものだった。
学部生として唯一、三等入選を果たした菊竹であったが、二等当選には丹下健三、三等には前川國男など当時の日本建築界の重鎮達が名を連ねていた。


大学卒業後、竹中工務店入社、その後村野・森建築設計事務所勤務を経て1953年、菊竹清訓建築設計事務所設立。25歳であった。


1958年、処女作で自邸でもある「スカイハウス」を実験住宅として設計。
翌年、「島根県立博物館」が竣工。
両作品とも代表作となる。
 スカイハウス

その後菊竹は「海上都市」や「搭状都市」の構想を掲げ、川添登黒川紀章らと“メタボリズム・グループ”を結成。
その大胆な発想の数々は建築界にとって大きな衝撃であり、それらは後に丹下健三が発表する「東京計画1960」にも影響を与えたといわれている。


菊竹の事務所では設計作業と同時に、実現の当てもない「海上都市」などの計画に取り組んでいたという。


1963年、“戦後の三大コンペ”の一つ、「国立京都国際会館設計競技」に参加。
第六次まで及んだ審査の結果、大谷幸夫に次ぎ優秀賞となる。
建物自体を持ち上げ、逆台形を構成とするその案に評論家川添登は「菊竹案こそ首席であるべきだ」とメディアを通して再三説いたという。
実現はしなかったものの、その斬新で大胆は提案は当時の建築界に強烈なインパクトを与えた。


同年、三段階デザイン方法論、「か、かた、かたち」を発表。
哲学的思考はルイス・カーンと共通点があり、世界デザイン会議でカーンが来日した際、自邸にてデザインについて熱く語り合ったという。



日本建築学会賞受賞(出雲大社庁の舎 1964) の他、多数賞を受賞。

伊東豊雄、大江匡は菊竹清訓設計事務所出身である。  
        島根県立博物館 
          

1960年代という最も日本がエネルギーに満ちていた時代、菊竹氏はメタボリストとして数々の都市計画の提案を試みましたが、そのほとんどがアンビルトに終わっています。
やはり時代背景というものがあったのでしょうか。
当時、国民の最大の関心は日常生活における経済的充実だったと言われ、直面する都市計画問題をメタボリズムという都市・建物の新陳代謝を中心に考えた菊竹氏を中心とするメタボリスト達の提案は、皮肉にも人々から“都市ストックを阻む、スクラップアンドビルトの志向主義”と間違った方向に理解されてしまったといわれています。
事実、1970年の大阪万博を最後に彼らの存在が第一線に取り上げられることはなくなってしまったそうです。
その後も“建物の新陳代謝”とテーマに「ホテル・ソフィテル東京」や「江戸東京博物館」を設計した菊竹氏でしたが、その独特で奇抜ともいえるデザインは都市景観を損ねているとの見解・批判もあるようです。
とはいえ、日本建築界に多大な影響を与えた人物には変わりなく、その絶対的な主張と実現を夢見て計画を進め続けたという半ば伝説のようなストーリーの数々にはただ圧倒されるばかりです。